漉き

日本古来の製法
「流し漉き」

日本古来の製法である「流し漉き」より仕上げられる和紙は、繊維がよく絡むため、薄いものでも布のように強いと言われます。

日本の美しい文化を継承する和紙は、 人にも環境にも優しい素材として、 世界中でインテリアなどに取り入れられてきました。 その美しい色合いと独特の風合いは、 眺めているだけで心和み、人々の生活に潤いをもたらします。

職人の繊細な技が
息づく和紙

色紙や糸を漉き込んだり、
手もみでしわを施したり、
レースのような透かし模様を作るなど
職人の技が息づいています。

美濃和紙の歴史

 

1300年の伝統に生きる美濃和紙 美濃和紙の起源は明らかではありませんが、少なくとも奈良朝時代(約1300年前)までに遡ることができます。正倉院文書の中に、美濃和紙経紙が記されていて、美濃はその量が最も多くありました。宝亀5年(774年)の資料には紙を製造し、年貢として都へ差し出す国が14か国あり、この中にも美濃の名がありました。美濃の国では、紙の原料となる楮(こうぞ)が良質で、多く取れたものと考えられます。 平安時代になると製紙業はいっそう発達し、美濃は紙の原料である楮(こうぞ)を600斤(約360kg)年貢を差し出しています。これは他の原料をはるかに引き離した量です。美濃の国の製紙場は、紙屋と呼ばれ、岐阜県不破郡垂井町か大垣市荒尾町(岐阜市の南西30km)にあったと考えられています。美濃市における製紙の始祖は、明らかになっていませんが、承安3年(1173年)か(1190年)に始めた太田氏か、(814年)に羽場氏が始めたと言われています。 美濃紙の中心は現在の美濃市及び周辺の地域で、市内大矢田に紙市がありました。 美濃和紙は、江戸時代になっても受け継がれましたが、紙漉き業はみだりに免許されませんでした。 明治維新により制限がなくなり、急に製紙業が激増しました。明治初年における美濃和紙の生産数量は、「美濃紙29萬束、23萬2千円」とあり、現美濃市の地域が紙生産の中心地であったことが分かります。 その後の経済不況、濃尾震災(明治24年)、太平洋戦争による物資、労働力不足等が美濃和紙生産に大きく影響しました。紙需要の飛躍的増大に伴う機械抄の導入、機械抄紙との競合は大正時代からの更には戦後に石油化学製品の進出は大正末期から紙業界の大きな課題でした。業者多数を有し問屋支配型出会った美濃紙産地は、大量消費が期待できる日用品素材を中心に生産しているため、機械抄との競合、更には戦後における石油化学製品の進出などを影響を受け、転廃業あるいは自ら機械抄への進出などにより、昭和30年代には1200戸あった生産者数が、昭和40年には500戸に激減し、その後現象をを続け昭和50年には100戸、昭和60年には40戸となりました。手漉き和紙の振興をはかるため、昭和58年に美濃手漉き和紙協同組合を設立し、伝統技術に新しい改良を加え、その技法を後世に残すよう努力を続けています。 昭和60年5月22日には、通産大臣から伝統工芸品に指定されました。 引用:美濃市観光協会ホームページ

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